今とび魚になって〜チャットモンチーと私〜

年齢がうっすらとわかってしまうかもしれないが、チャットモンチーを知ったのはまだ大人の階段を無理やり登らされていた子供の頃のように思う。あの頃の子どもにあったのは反抗ときらめきのマリアージュだった。

あれは暑い夏の日だったと記憶している。お気に入りのピンクの半袖シャツを着て、友人が住むマンションのエントランスにたむろしていた。学校のことをだらだらと喋っていたらふいに友人がスピーカーから音楽を流した。

 

「鈴さ、この歌知ってる?」

 

それが『とび魚のバタフライ』だった。それは当時全く音楽に興味がなかった私の耳にべったりとこびりついた。脱力してしまうようなスタート、思わず身体が揺れるリズム、離陸する飛行機のように急加速して突き抜けるサビ、全てが魅力的。それは衝撃だった。

私にこの曲を勧めた親友であったはずの友人はこの数年後私をグループでハブるようになる。もう私は彼女の連絡先すら知らない。今でもこの曲を聞くとちょっと気持ちヨくて気分が悪い。あのジメジメした夏が、その後の顛末が蘇る。

時は経ち私は大人になり、チャットモンチーは解散した。諸行無常。私たちもとび魚みたいに空を飛べたらこんなことにはならなかったのかな。一面のブルーは上を見上げればそこにあったはずなのに、私を助けてはくれなかった。いくら嫌な思い出が思い浮かんでも私は今日もこの曲を聴いてしまう。そりゃあだって、助走をつけたら空も飛べそうな気がするのだ。毎日人間でいるのは疲れちゃうからね。

死にたがりと安田章大

ずっと死にたいと思って人生を生きていた。何度かブログやTwitterで仄めかしていたが、生々しい話をするのはこれが初めてかもしれない。少し暗くなるので心が健康なときに読んでほしい。

私は健全な人生を歩むことができなかった。小学生でいじめられ、中学生でPTSDが炸裂。そのまま鬱病になり、ひきこもり。学校には行けなかった。人生のうち精神科に払った金額は正直考えたくない。行ったことある人はわかると思うけど精神科って高くね?たまに眼科とか行く安すぎて気失いそうになる。

防衛本能なのか一番うつの症状が限界だったときの記憶はぽっかり抜け落ちている。忘れているからどんなふうに限界だったかも覚えていないが、幻聴に悩まされ「人の声が聞こえる」としきりに言っていた気がする。というか今これ書いててなんとなく幻聴のことを思い出した。それくらいなんにも覚えていない。なにを食べていたのかも思い出せない。多分お風呂とか常人が気を失うくらいの期間入ってない。奇跡的にこういったひきこもりから脱却できて何年経っても、いい歳になっても「死にたい」というのが常に私の口癖だった。逆に死にたくないと思う人間、意味わからなかった。健全に生きたいと思い生きてる人のことが信じられないということである。いや、信じられないのはオメーだよ。と思う方のほうが多いかもしれない。その感覚が正しい。私もそう思う。そもそも普通の人間は生死について常に考えない。私は常に死と隣り合わせで、死ぬことが特別ではない生活を送っていた。

引きこもりは脱却したが、精神科は卒業できず、頼れる物も人もいなかったある日、なんとなくテレビを見ていると関ジャニ∞が出ていた。深夜の番組だ。村上信五がめっちゃ可愛い顔でテレビを頑張っていた。すぐに「これだ!」って思った。こんな可愛い顔の男は生まれてから一回も見たことがない。私はこの人のことをきっと好きになるんだ!そう確信してファンになるために関ジャニ∞のライブ映像や、CD、レギュラー番組を沢山見た。さぁ、ファンクラブに入るぞ!という段階にまできて、気がついたら村上信五の横にいた小さな可愛いお兄さんのことがめちゃくちゃ好きになっていた。なんとびっくり、それが安田章大さんです。そんなことある?でも村上さんは今でも見たら気絶するほど顔が好きだし、私を救ってくれたきっかけとなる人です。顔、スタンディングオベーション級。仕事との向き合い方もすごい尊敬してる。だるんだるんの生活を送る私の目を覚ますような発言をお見かけして、本当に見習うべき人だなぁと自分を正す機会も何回もくれた人。大好きです。自分と正反対すぎるからこの世に存在する人類の中で、二番目になりたい人間。一位はビリーアイリッシュ

さて。安田さんの事が好きと気がついたとき自分でも本当にびっくりした。全然タイプじゃなかったし、関ジャニを知るまで名前も顔も存在も知らなかったのだ。完全に予想外の出来事。だけど、何故か目で追ってしまう存在。それが安田さんだった。

関ジャニ∞と安田さんのことを好きになって私の人生はほんの少しだけ明るくなった。「死にたい」が「コンサートがあるからそれまでは頑張って生きよう」に変わった。これは自分にとって明らかな変化のように思う。安田さんはいっつも一生懸命だった。決して大きくはない体でがむしゃらに踊り、遠くの席のほうに大きく手を振り、楽しそうに楽器をかき鳴らし、キラキラの笑顔でいっつもステージに立っていた。そんな安田さんが本当に大好きだった。もしかしたら、私は安田さんを好きな自分だけはちょっと好きだったのかもしれない。自己肯定できるのも初めてだった。安田さんが素敵だから羨ましくて、勇気づけられた。それと同時に「安田さんはこんなに頑張ってるのに自分、何やってんだろ」と思ってしまうのが辛いところではあったけど。たまに「今すごい死にたいのに手元にチケットあるから死ねないなんで!?!?」と謎のヒステリーを起こしたり、安田さんがあまりにも眩しくて、自分との差が酷くて、生きてるのが恥ずかしくて、死を覚悟した夜もある。情緒不安定人間による完全な言いがかりである。いつもごめんなさい。

安田さんと出会ってすぐに励まされて、うつ病も治って、精神科とはおさらば、死にたがりは終わって、幸せなキラキラライフがすぐに始まるというわけではなかった。人生はそう上手くいかないし、うつ病はすぐには治らない。前述したように好きと死にたいの狭間で本当に何度も苦しんだ。これで死んでやろうと家中の刃物を全て収拾して母にブチギレられたこともあるし(即座に病院にブチ込まれた。それはそう)、消えたい死にたいと箱ティッシュ全部使うほど泣いた夜もある。こんなに好きで応援したい人がいるのに、それでもまだ死にたいなんて思ってしまう自分に心底呆れていた。それでもやっぱりまたコンサートに行きたい、安田さんに会いたいという思いは私の寿命を伸ばした。

なんとかなんとか関ジャニ∞に少しずつ力を貰って、その力を糧に私も努力をした結果、六年間毎週のように通い続けた精神科からの卒業を果たした。ありえないほどの時間がかかった。それでもまだ長いことなんとなくブルーという人生を過ごしていた。そんな私を変えてくれたのは、やっぱり安田さんだった。

きっかけは彼の身体に起こった出来事だ。

安田さんは私の知らないところで手術をし、私の知らないところで怪我をしていた。全て知らされたのは時間が経った頃で、私はもう何も出来なかった。知ったときは足の震えが止まらなかった。変わってあげられるなら変わってあげたいと心から何度も思った。私なんかは生きるべき人間じゃないから、安田さんに私のぶんまで元気で生きてほしかった。私の寿命も健康も全部全部あげられるから、どうか私が私より大切な安田さんに安らかな生活をと思った。死にたい私と生きたい安田さんの関係はWin-Winな気がした。テレ東音楽祭で全然動けてない上にカメラにも映らない安田さんを見て本気でショックを受けた。何もできない自分が恥ずかしくて何度も泣いた。これは、私のワガママだけど、コンサートも出てほしくないってずっと思ってた。私の病気は心の病気だど、病気の中無理やり動く辛さを私も知っている。だから休んでほしかった。それでも七人の完結と、六人の再スタート。彼はやらなければいけなかった。

安田さんの体のことも、六人のこともドキドキしながら赴いた東京ドーム。アンコールの後に安田さんが言った一言で私の人生は大きく大きく大きく変わった。

「明日からも生きていこうぜ!」

理由もわからず、何故か涙が止まらなかった。同行した錦戸くんのオタクに心配されるほど泣いてしまった。私にとって「明日」「生きる」は最悪のワードだった。朝が来れば毎日絶望していた。向精神薬の副作用で吐き気や異様な眠気に襲われ、身体はボロボロだった。ニュースで誰かが死ぬのを知るたびに「私より生きるべき人が死んで、何故死ぬべき私が生きているのか。代わってあげたい」と何度も考えていた。そんな人生だったから、大好きな安田さんが私に「生きていこう」と言ってくれたことが、私にとって何よりの宝物になった。初めて自分は生きていてもいいのかもしれないと思えた。人生の半分以上ずっとずっと「自分なんか死ねばいい」と思っていた人間からしたら、大きな進歩だった。私が私に許された瞬間だった。そこから、世界が大きく変わった。

毎日のように言っていた「死にたい」が口癖ではなくなったのは、今までの人生ではあり得なかった。少しでも気分が落ち込むと、安田さんの東京ドームでの発言が今でもはっきりと脳内で再生される。精神科医やカウンセラーに言われても何も響かなかったけど、他の誰でもない「安田さん」が言ったから意味があった。

今も「普通の人」ではない。些細なことでひどく落ち込む。どれくらい些細かって、この前日傘をなくしてあまりのショックに身体が動かくなり、六時間寝込んだ。やばいでしょ?やばいんです。これだから、もう一生普通の人間に戻ることはできないと思っている。正直自分がいつ死ぬかもわからない。私は社会のお荷物だって重々承知だ。でも、安田さんが生きようって言ってくれたからあとちょっと頑張ってみてもいいかなって思う。こんな長文の記事を書いておいて、二日後にでもいきなり死んだら恥ずかしいじゃん。ダサいし。だから自分の過去さらけ出して思い切って書いてみたんです。

 

クラスメイトはみんな私のこと嫌いだって思ってた。私の筆箱はゴミ箱の中にあったし、上履きだってなくなった。男子トイレの中に突き飛ばされたこともある。私が近づいたら女の子たちは逃げた。でも、これは根拠がないけど、もう過去に囚われた私からは卒業できる気がしている。安田さんにファンとして大切にされていることに気がついたからである。誰にも愛されずにここまで来たと勘違いしていたが、私は既に一人の男に愛されていた。一緒にこれからを生きることを提案してくれるなんて、相当の愛がなければできないでしょう。だから、これからは沢山安田さんに恩返しをしたい。私の人生は決して幸せな人生ではなかったかもしれないけど、安田さんに出会って少し変わった。ちょっとずつ幸せを感じられるようになった。今度は、私が安田さんのことをファンとして幸せにしたい。それが私の使命のように、このいつ消えるか分からないなけなしの命が生まれてきた理由のように思うからだ。

夢はまだまだ止まれないだろ

ここ最近、やけに渋谷すばるの脱退について思い出すことが多い。「思い出す」というのは過去の出来事に思いを馳せるということだ。渋谷すばるがいなくなって二回目のツアーが始まろうとしている。あんなにファンに衝撃を与えた脱退は過去になりつつある。時はすぐそこまでやってきているのかもしれない。

前を向くという行為に非常に恐怖を覚えるのは、今までの過去をなかったものにしてしまいそうだからだろう。八人から七人になり、七人から六人になった関ジャニ∞。全員で写っている引きの絵を見るとどうしても減ったな、と思わざるを得ない。ちっちゃいおっちゃんが抜けて平均身長が上がったのか何故か全体的にでかく見える。そういうところすらなんだか愛おしい。

勿論分かっている。前を向くことで今までの関ジャニ∞はなかったことなどならない。私の生きる希望になってくれたのは過去の関ジャニ∞だからだ。渋谷すばるの存在が私にとって大きすぎただけなのだ。だからこそ最近の「思い出す」という行為には我ながら絶句している。

まあなんだかんだ喚いてもオタクのワガママなのはわかってるし。他のポストにも書いたと思うが、母に置いていかれる子供のような気持ちになり寂しかっただけなのだ。それが「活動します」と出てきてくれたから吹っ切れたというのも強い。関ジャニ∞渋谷すばるは別の生き物になり歌を歌う。ただそれだけである。私は欲深いオタクだからまだ関ジャニ∞と叶えていない夢が無限のようにあるのだ。台湾だけじゃなくて色んな異国の地でライブをするところも見たいし、まだまだ主演のドラマ映画舞台も見たい。新曲を歌う歌番組。冬のツアー。私たちの旅はこんなところで終われないのだ。

 

彼もファンクラブを開設し、ソロ活動の発表があった。関ジャニ∞もレギュラーや個人のしごとをこなしつつツアーの準備に大忙しだろう。皆、前を向いている。私も悲しくてつらい記憶になんとか折り合いをつけ、背を向けて歩き出している。毎日涙が止まらなかった。大人になってあんなに大きな声で泣いたのは初めてだった。なんとか起きて毎日家を出た。しばらく目は2mmしか開いていなかった。でも、こんなに泣かされてるのにやっぱり渋谷すばるの、そして関ジャニ∞のファンで良かったと思った。この人の歌を聴くために私は生まれてきたんだと、そうずっと信じてる。だからこそ私は前をむくよ、渋谷すばる。その選択は世界で一番かっこいい選択だった。名前の前につく「元関ジャニ」が早く取れますように。頑張れ渋谷すばる、頑張れ関ジャニ∞!君たちがいくらしつこいと思っても私はテレビの前で、はたまた用意された席で応援を続ける。結局ただそれだけなのだ。

僕の愛がどうか届きますように

過去にブログでも書いた大好きなバンドのライブに行ってきた。久しぶりの彼の声。役者を必死にしていた峯田がライブをやるのは五ヶ月ぶりのことだった。皆ライブに飢えていて、必死に峯田に手を伸ばしていて、名前を読んで縋っているように見えた。ゾンビのようで面白かった。峯田もまたライブを待ち望んでいたのがよくわかった。なんどもそのような話を繰り返し「恋人に会ったようだ」と私たちに微笑んだ。

 

私が銀杏のライブが好きなのは、峯田の歌を聞きながら(この前のライブからこんなことがあって…)と峯田と内緒話をしている気分になれるからだ。そして峯田はそれを否定するような言動は絶対にしない。たまにこの人は何をやっても受け入れてくれるのではないかと錯覚してしまう。峯田、すきだ。やっぱり私はあなたが好き。

最近歌わなかった曲から、私の思い出の曲「BABY BABY」、そして新曲まで一時間半を予定していたライブは二時間を超えてアンコールまで響かせた。峯田はやっぱり最高だった。バンドメンバーもオーディエンスも全員が全力だった。

 

あの頃意味もわからず曲を聴いて泣いていた14歳の私は、もうすっかり大人になってしまった。時の流れは怖い。考えも生き方もこだわりもすっかり変わった。でも峯田の前に立つとあの頃の光景がやっぱり蘇る。私は中学時代学校にも行かず、キチガイ病院に通い、部屋でパソコンをイジって一日を過ごしていた。毎日に絶望して視界が狭かった憂鬱が高揚と共に戻ってくる。私を変えてくれたのは音楽だ。私は峯田の歌とともに大人になった。このぐちゃぐちゃな感情は峯田以外にはみっともなくて見せられない。

 

今までの人生許されようなんて思ったことはない。わたしは甘やかされるべき人間じゃないと思う。でも峯田は、峯田だけは私を抱きしめてくれている気がした。そんな夜だった。

魔法少女が嫉妬するくらい

かわいいね。

って先週知人に言われて嬉しかったです。

 

峯田和伸と私の話をしたい。

 

峯田和伸と私がいつから一緒にいたかなんて忘れてしまった。大体のアーティストとの出会いはよく覚えているものだが、この男は気がついたら私のすごく近くにいた。

 

誰にも理解されない学生生活を送っていた。まわりは甲本ヒロト峯田和伸も聴いていなかった。誰もこじらせていなかった。どうやったら甲本ヒロトになれるのか、そしてどうやったら峯田和伸と結婚できるのかをずっと考えていた。

考えていた、と過去形でいうのはもう流石に峯田のことを恋愛対象として見ていないんだろうなとおもう。でも今でも峯田のことを考えると胸がグッとなって、勝手に目が熱くなる。これってやっぱり恋なのかもしれない。「恋は永遠」のジャケットが可愛い女の子でちょっとやきもち焼いたもん。

 

GOING STEADY銀杏BOYZもずっと大好きだ。覚えたてのYouTubeで検索して聴いた、私の青春の音楽だ。周りの人間が知らないのが悲しくて、でも嬉しかった。峯田は私のものだったし、私は峯田のものだったよ。今更言っても遅いかもしれないけど。

何万回と聴いたBABY BABYは今でもひっくりかえるほど毎回衝撃を受ける。

 

峯田は無敵で、峯田の音楽もパフォーマンスも超無敵。私の胸の中で峯田は永遠に生きて歌を歌い続ける。寿命を削りながら。早く私もあなたみたいになりたいよ。私はずっと魔法少女になるのが将来の夢と言い続けてきた。冗談抜きで私は、無敵の魔法少女に本当になりたいのかもしれない。早くあなたの隣に並びたい。